雅子の自分史ストーリー

前回【9話】

焼け出され、リヤカーに乗せられ

行った先に住む事になり、困難な

生活の中でも私はすくすく育ち、

そこで小学校の入学を迎えること

ができたのでした。

「小学校は歩いてすぐの場所にありました。

黄緑色のまだ新しいきれいな校舎が

印象的な学校でした。」

で終わっています。

前回の記事はこちらからどうぞ

【10話】

小学校に入学してすぐその後に

私達は焼け出された後住んでいた

施設から引っ越すことになりました。

そこは、昭和30年に建てられた

鉄筋コンクリートのアパートで、

団地のような作りになっていました。

階段の出口があり一階に上がると

両脇に各家の扉があり、

また階段を上がると同じように扉がある

という当時は近代的な建物造りで、

外装がピンク色に塗られていたので

私達はそこをピンクのアパートと呼んで

いました。

(イメージです)

かなり古い団地の写真ですが外観が

こんな感じで外装はピンク色をご想像

ください。

この建物は外壁外装を替えてそのまま

健存しています。

しかも普通に賃貸アパートになってる

ようです。

一度訪れてみました。

住んでいた部屋の前まで階段を上がって

みましたら、なんと昔の落書きがそのまま

残っていたのには驚きました。

確か屋上には上がれなかったと記憶

しています。

室内も、小家族に使いやすい間取り

で、思い出して描いてみました。

寸法は適当です、ごめんなさい。

お風呂場が小学生の私が入って

ちょっと大きい位でしたので、

大人には狭かったでしようね。

でも、お風呂屋さんに行かなくて

済むしトイレは共同でなくしかも水洗

だったのが嬉しかったですね。

板の間についてるオレンジ色の長方形

はキッチンカウンターで当時はモダン

だったのでしょう。

その奥の窓際にシンク、ガス置き場

がありました。

驚いたことにシンクの横は

ダスターになっていて、そこからゴミ

を捨てられたんです。

のちに衛生上よくないと塞がれましたが

とても便利な生活環境になった訳です。

母も、あそこの間取りは一番好きだった

と言います。

でも、私は二段ベッドの下段に一人で

寝せられたので、寂しくて寂しくて

6畳に敷かれた父と母の布団に毎日

潜り込んで泣いてたのを思い出します。

そのピンクのアパートは敷地内に4棟

立ち並び、

敷地の真ん中には大きな

石の滑り台が設置され

白詰草が植えられた小さな草はらがあり

子供達は学校から帰るとそこで暗くなる

まだ遊んだものでした。

小学校6年間の思い出はそのピンクの

アパートと共にあります。

石の滑り台の広場で遊んだこと、

紙芝居屋さんがその広場に来たこと

夏になるとアパートの壁がスクリーン

になって映画会があったこと、

石の滑り台は特等席だったこと、

白詰草が咲きほこる草はらでは

花の冠を作ったり

四葉のクローバーを探したり

石けりや、ビー玉ころがし、まりつき

メンコ等々夢中で遊んだものです。

5時の鐘が夕空に響き渡るとちゃんと

みんなでさよらして家に帰ったものです

========

一度こっぴどく叱られた出来事が

ありました。

子供は時に怖い遊びも平気でやります

屋上から下に雨を流す雨どい

男の子たちが屋上の柵を超えて

その雨どいを伝って横の階段のある

突起までいく

というぞーっとするような遊びを

やっていることがあって、

たまたま私もそこにいて肝試し

とか言われて挑戦したんです。

うわー本当怖い!

まちがって手が滑ったら真っ逆さま

に落下して死んでしまいます。

一回できちゃったんですよ、私。

そしたら全然平気で二回目に!

挑戦してる最中に下からおばさん

の声が

「危ないからやめなさい」

その声が聞こえても平気で

行こうとしてたみたいです。

もう一回言われて初めて危険を

感じてやめたのです。

あせる
あせる
あせる

運動神経が良かったので無事でしたが

あの時おばさんが気が付いて

声をかけてくれなかったら、また挑戦

していたかもしれませんね。

ああ、本当に怖いもの知らずは

なんと恐ろしいことでしょう!

後で親に怒られましたが当然ですね(笑)

両親を心配させたり驚かせたり……

私はなんと親不孝な娘だったのでしょう

この時は事なきを得たのですが、

その後しばらくして

とんでもないことを起こしてしまうのです。

~続く~