60代ヒーラーの雅子です!

雅子の自分史ストーリー

前回【8話】は、

もしかしたら命がそこで終わって

いたかも知れない出来事を話しました

あの時誰かがドアを叩いて火事を

知らせてくれなければ、もしかしたら

両親共に命をなくしていたかも

知れません。

物心ついた頃から住んでいたアパート

は焼けて無くなりました。

「その思いがひしひしと伝わって

リヤカーに初めて乗せた貰った

嬉しさはしょぼんと萎んでいました

でも命だけは助かったのです。」

前回はここで終わっています。

 前回の記事はこちらからどうぞ

【9話】

火事の後、あれは次の日だったのか

しばらく日にちが過ぎてからなのか

私は覚えていないのですが、

リヤカーに乗せられ荷物は布団と

少しばかりの荷物の中で

リヤカーを引く父の後ろ姿を見ながら

父と母の打ちひしがれた思いが

ひしひしと、幼心に響いていたのは

よく覚えています。

リヤカーに乗せられ着いた先は

信濃川の近くにある

国鉄の所有する大きなグランドの

脇にある施設でした。

国鉄野球部に入っていた父は

そのグランドで練習してました。

そのグランドに隣接する施設で

宿泊部屋と教室のような部屋が

一階と二階に、幾つかありました。

火事で焼け出された家族がそれぞれ

の部屋に住む事になったのです。

うちの家族は一階の北側の部屋を

与えられました。

どんな時でも、子供たちは意外と

たくましい。

そして元気を取り戻すのが早い。

私も火事になったアパートの時の友達

とまた一緒の所に住める事が嬉しく

そこの生活に慣れて行きました。

そこでの思い出のひとつ

夏には信濃川で夏祭りの一環で花火

が打ち上げられます。

施設は国鉄のグランドの脇で花火の

時はグランドを開放して、そこで間近で

花火を見る事ができました。

信濃川の打ち上げ場所から近い

ので殆ど真上で迫力満点、大倫の

花火が見られる最高の場所でした。

母は、その花火の日の夕方、

グランドにゴザ※を敷いて食べ物も

用意して私と一緒に座って花火が

始まるのを待っていました。

ゴザ:畳面を使った敷物、今のシート

みたいな物

私にとって間近で見る花火は初めて。

ワクワクドキドキしながら待ってると、

母が

「ちょっと、家に行ってくるね。」

そう言って家に戻ったのです。

空は暗くなってきました。

「おかあちゃんまだかな?」

ひとりで心細くなってきた私でした。

その時です!

ドーン!!

一発目の花火が上がったのです。

その音といったら!!

とにかく大きくて地面に響くほど

その一発目の音に驚いた私は一目散で

家の中に入り、敷いてあった布団に

頭を突っ込んだのでした。

もうそれで動けませんでした。

母がなんと言おうとその日はグランド

には戻らず、耳を押さえて布団の中で

震えていたのでした。

結局その日は花火を見る事もなく

何年間は花火はただただ怖いもの

でしかありませんでした。

今ではあの音は快感なんですけどね。

小さかったのと、母がいなくて心細

かったので尚更音に驚いてしまった

のでしょうね。

焼け出され、家財道具を殆どを失い

私を乗せてくれたリヤカーにあった

のは布団とわずかな荷物だけでした。

両親は最初は途方に暮れていたでしょう

それでも私をすくすくと育ててくれ

私は新しい施設での生活を楽しく

過ごすことができたのでした。

そこの施設に住んで翌年

晴れて小学校の入学式を迎えました

入学式当日その施設の玄関先で写真を

撮ってもらったのですが

長靴下の靴下止めが大きくてずり落ち

そうだったのが思いだされます。

毛糸のパンツに長靴下に靴下止め

想像できますか?

超ダサ!!

いえいえ、当時は超トレンディ

だったんですよ(笑)

小学校は歩いてすぐの場所にありました。

黄緑色のまだ新しいきれいな校舎が

印象的な学校でした。

~続く~