初めまして
Heal &Healed in MagosのMasako Kumagai(熊谷雅子)です。
リコネクションとリコネクティブ・ヒーリング
を 主に世田谷区三軒茶屋にて ご提供いたしております。
非凡な生活を望んだのは私
新潟市の信濃川近くで暮らし18歳で短大に入学上京し、会社勤めを経て22歳で結婚してから特に何事もなく、三人の娘が誕生するまで順調に幸せな結婚生活を送っていました。
主人が会社を辞め事業を立ち上げ、バブルの崩壊とともに事業の失敗そして倒産、不倫、一家離散、やっと生まれた長男の病気、離婚の危機と、そこから順調な結婚生活には程遠い人生となっていきました。
主人のその時の不倫相手が会社で雇っていた女性だったことがトラウマになり、後々私を鬱という病気に陥らせることになるのです。
よく離婚しなかったねと言われます。
病気の息子を私一人では到底育てられない、そんな思いが私を結婚にしがみつかせていたのかもしれません。いえ…それ以上に主人を私が愛していたからかもしれません。 結婚前に感じた主人への懐かしさ。今生で縁を切ることはないという根拠のない希望からだったのかもしれません。
執着というものだったのでしょうか?それは今でもよくわかりません。
高校の倫理の時間、自分の人生を描くという授業の中で私が描いた将来の自分、それはどんなものだったかというと、とにか平々凡々はいやだ、いつも非凡でありたい。と、なんとも生意気な答えを出して、先生には「平凡の中の非凡という幸せもありますよ。」と諭されたのを覚えています。
「平凡の中の非凡?そんなのいやだ!」と息巻いていました。
そうです。 非凡な生活を望んだのは私自身だったんです。その想いは、そっくりそれからの私の人生そのままとなっていったのでした。
上がったり下がったり、そして
東京の短大を卒業して、結婚して3人の女の子に恵まれました。
非凡な生活は少しずついろいろな形になって現れました。
主人が会社を辞め独立、事業を始めてから徐々に生活は変貌していきました。
事業の失敗、倒産、夜逃げ、不倫と、人生は上がったり下がったり、なべ底を何度舐めたことか。
実家に迷惑をかけ、周りに心配をかけながらも、4人目の子供が授かりしかも男の子だった時はしばらくは幸せな日が続きました。やっとできた長男で、お姉ちゃん達もおしめを変えてくれたり、働いていた私の代わりに保育園まで迎えにいってくれたり、みんなで楽しく暮らしていました。
でもそれも長くは続きませんでした。
最初は麻疹の熱性けいれんから始まりました。それが治っって次はウイルス性白色便でもけいれんを。
その後、普通に遊んでいるときにけいれん発作を起こしたのです。
息子は1才を待たずに難治性てんかんという病気を発症したのでした。
難治性ってどういうこと?息子の病気は治らないということなの?
せっかくできた長男なのに、どうして?
子供たち
息子の闘病生活が始まりました。
息子のてんかんに効く薬はなく、毎晩就寝時のけいれん発作はなくなりませんでした。
入院し、様々な検査をしました。どの薬も効かないので一度投薬をやめた時には一日100回以上のけいれんが起きて、もう手のつくしようもないところまで行ったときもありました。
当然のように知的に障害が発生、精神にも影響がはいりました。
上の娘たち、特に三女はまだ小学校1年生、まだまだお母さん恋しい年ごろなのに、弟の病院通いのために余裕のない母のせいで我慢しなければならないことがたくさんあったと思います。娘たちはそれぞれおのずと自立せざるを得ませんでした。それはいいことでもあるけれど、不憫に思うことでもあります。
倒産して会社を閉めた後、一家離散をした時もありました。債権者からの執拗な電話。
実家に避難していたので、両親に本当に心配をかけました。
三女が鉄棒から落ちて腕を骨折したときは本当に途方にくれました。
田舎に移り住んでいた実家から学校へは30分近く歩いて行ったところ、田んぼのあぜ道は冬になると風が真横から降るという、そんなときの登校は都会暮らしの娘たちには地獄だったそうです。
娘たちの学校の転校手続きもわからないようにする訳ですから、卒業を迎えた次女と三女の卒業証書には名前があっても在籍番号は入っていません。つまりその学校には存在していないのです。中学も高校入学も学校の先生と相談しながら進めていったのを思い出します。
実家へ逃げていた時も、一家離散を辞め川崎で家族で暮らし始めた時も、東京に戻ってもその約6年半の間、娘たちが通った学校に彼女たちの名前はありません。息子も小学校へ上がるのに名前はなく区役所へ事情を話して何とか入学しましたが、知的障害のこともあり詳細はここでは書けませんが、やはり大変でした。
川崎に住んでいた頃、息子の病院は病気を発見され治療していた元の新宿の病院へ戻りましたので、川崎から新宿まで息子を連れて電車で通うことになりました。
発作が収まらず電車の中で三才の息子を抱いて座っていると周りから好奇の目でみられたこともありましたっけ。
降りた駅前でけいれんしている息子を抱きかかえ、座り込んでいたことも思い出します。
川崎に移り、主人は仕事を見つけ働き始めましたが、家計は苦しく、そんな中息子の病院代薬代は大変でした。
それでも、病院をやめるわけにもいきません。その三年間の間に、もしかしたらけいれん発作の原局がわかれば手術で治るかも知れないと診断され、検査入院開頭手術をしましたが、けいれん発作の原因がわからず、二か月間の入院が無駄に終わったこともありました。
息子が交通事故にあってすんでのところで助けていただいたこともありましたっけ。
ここまででも結構非凡な生活だと思いますがその後も決して平凡な暮らしではありませんでした。
鬱に
東京に戻り普通の暮らしができるようになり、障害児を持つお母様のお誘いで演劇クラブに入り、毎年公演にでるようになり、子供たち、特に娘たちは都会生活に戻り水を得た魚のように生き生きとなっていました。
息子も、てんかんの発作で救急車さわぎはあったものの小学校生活を楽しめるようになっていました
ようやく何とか普通に平和に、息子は病気があっても一家揃って幸せな毎日が続きました。
それを壊したのは私自身だったのです。
主人は昔とは全く違う事業を始めていました。
その仕事が順調になりかけたので、私にもうひとつの部門で会社を作るから社長をやってほしいと頼まれました。
最初は引き受けるつもりで、といっても私にどれだけの力が有る訳でなく名前だけの社長のような会社でした。
それでも主人の助けになるならと、起業の手前まで行ったときに
「女の子を入れるから。」
… … … … … … … …
この一言で私の決意が一気にくずれてしまったのです。
そう、前述した昔の主人の不倫のときのことがザーッと津波のように押し寄せてきたんです。
昔のトラウマから、会社に入れるという女性と昔の主人の不倫相手と重ねてしまって、 私はせっかく主人が用意してくれた道を自ら閉ざしてしまったのです。
色々ありましたが、結局私は社長を引き受けませんでした。
主人もがっかりだったでしょうね。
今だから主人には申し訳なかったと思えるのですが、当時は主人の気持ちを思いやる余裕は全くありませんでした。
後悔と悋気が入交り、そこに更年期が加わり、私の心はどんどん荒んでいきました。たばこを吸い始め、日がな一日ベランダでボーっとしていることが多くなっていきました。そしてはっと気付くとカッターナイフを手首にあてていたことも。
好きなアマチュア劇団にに入ったりダンスを習ったり優雅な生活ができていたにも関わらず、過去のトラウマから主人への不信と後悔と愛情のはざまでとうとう鬱病を病んでしまったのです。
そこから脱出したく病院通いや催眠術に頼ったりしましたがどうやっても治りませんでした。
息子は中学高校と障害学級と進み薬さえ飲み忘れなければ元気に過ごすことができるようになっていました。その息子にも私のうつが移ってしまったかのように時々登校拒否に…
知的障がいのある子がうつ状態に、高校二年と三年の夏休み明けの前日の夜中には家にいられず、近くの公園を歩き回るということもありました。
私のせいでした。申し訳なくて、歩き回る息子の後を一晩中付き合って歩いてたこともありました。
本当に私はどうなってしまったんだろう?
まわりにはいつも暗雲が立ち込め真っ暗な中で手探りしている状況が続きました。
切なくて辛くて、隣近所に鳴き声が聞かれないように、ステレオのボリュウムを上げて大声で泣いた日もありました。
占い霊能師ジプシーに
そのころは、スピリチュアルが流行り、テレビでは霊能師の愛子さん宜保愛子さん、江原啓之さんと美輪明宏さんのオーラの泉等と霊能関係の番組が人気になっていました。
もしかしたら、私のこの鬱も主人とのこともわかるかも知れない、そんな思いで霊能師巡りをはじめたのです。
最近知ったのですが、こういう行動をすることを「○○ジプシー」っていうんですね。
本当に沢山の占い師にみてもらいました。スピリチュアルの方にみてもらったり、そして最後にある霊能師の方にお会いして鑑定をしていただいたのですが、助手の女性の方がたまたまリコネクションのプラクティショナーだったんです
その時は藁をも掴む心境だったからかも知れません。この苦しみから抜けられるなら、何でもいい助けて欲しい!
リコネクティブ・ヒーリング®
リコネクティブ・ヒーリングのセッションを受けました。二回受けました。
その時の感触は実はあまりよく覚えてないのです。
でもリコネクティブ・ヒーリングの効果は徐々に表れていきました。
リコネクティブ・ヒーリングもリコネクションも医療的治療ではないのですが、不思議なことに、その後鬱は改善されていったのです。
病院の先生からもう治療は卒業ですよ、と言われた時の喜びは忘れられません。鬱は治りました。それがリコネクティブ・ヒーリングのおかげかどうかはわかりませんが、私の中の鬱の部分にエネルギーがはいって行ったのは間違いないと信じられます。
リコネクティブ・ヒーリングを受けてから数年が経ち、鬱状態は無くなりましたが、ま だ主人へのトラウマは解消していませんでした。その後またトラウマに関係することが起こり、かなり悩み、また霊能師の所へ。 そこでやっとリコネクションのセッションを受けることになったのです。
リコネクション®を受ける
でもセッション料金は、54,333円、決して安いものではなく、当時の私にとっては手の届かない高嶺の花のように思われました。
リコネクション!?何それ?そんなに高いお金を取って本当に効果があるのかしら…しかも私にはそんなお金はない…
結局私の人生はこのまま苦しみと共に続くのかとあきらめかけたとき、不思議なことに料金に見合うお金が手に入ったのです。
(あとで知ったことですが、その高いと思った54,333円は日本にリコネクションが上陸してからずっと変わりない金額だったんです)
半信半疑でしたが、もしかしたらこれはリコネクションを受けなさいというお告げか何かかもしれない。お告げだなんて(笑)宗教ではないのに。でも、今から考えると何でも神頼みしたくなるほど切羽詰っていたのでしょう。
私はそのお金を持ってプラクティショナーのところへ行き、リコネクションを受けました。ああ、これできっと良くなるに違いない!と
希望でいっぱいになりました。
しばらくは何も起こりませんでした。だんだん希望はしぼみ、リコネクションを受けたことは何の意味もなかったのかと不信になっていきました。ヒーリングまで受けたのに…。
しかし、宇宙の采配はリコネクションを受ける前から始まり、リコネクションを受けて的確になっていたのです。
リコネクションを受けるために用意されたお金が手に入ったときから、いえ、リコネクションを受けたいと思った時からすでに私の周りにその周波数が届き始めていたのかもしれません。
リコネクション®効果
リコネクションのセッションを受けて半年ほどたった頃から徐々に
私の周りが変わっていったのです。時に大きく時に緩やかに。私の中の何かも変わっていきました。
周りが変わったというより、私が変わっていったので、自然に私を取り巻く「周り」が変化をしたと感じさせてくれたのかも知れません。
ちょっと抽象的になってしまいましたが、自分が変わることで生きやすくなる、ということでしょうか。
私の中に何か変化が起こっていました。
具体的にどんな変化が自分の中にあったのでしょうか?
それは、
自分自身の想い癖に気が付いたんです。
よく心理カウンセリングの方が口にされますが、「想い癖」って?
これは生まれつき持っている考え方、DNA、育ってきた環境、その他諸々遭遇した出来事など、様々な原因でというものができていくようです。
非凡な人生を望んだこともその想い癖のひとつなのでしょうか。
つい深く考えてしまう、ネガティヴに考えてしまう癖
まさにそれだったのかも知れません。
結婚し、4人の子供に恵まれました。
しかし主人の事業の失敗、夜逃げ、
4人目の子の病気と障害、順風満帆な結婚生活からは程遠いものになっていきました。
そして更年期障害からくる鬱に悩まされ病院通い、夫婦仲の悪化、
子供の病気で何度救急車のお世話になったでしょう。
これではひどいネガティブな想い癖があっても仕方ないです。
つらくてせつなくてステレオのボリュームを上げた激しい音楽のなかで大声でよく泣いていました。
(この方法は意外とすっきりしましたが周りへの音迷惑ですね)
精神科のカウンセリングを受けても、薬を飲んでも苦しさはなくなりませんでした。
自分で自由にできる余分なお金はありませんでしたが生活はできていたのが救いでした。
お涙頂戴のような話しですが、これも結局自分の想い癖からきた現象でもあったのかと思うのです。
そして、リコネクションを受けました。
結果は前述した通りです。
「想い癖」ということに「気が付いたこと」、そこからどんどん私の人生は明るい方向へ加速していきました。
私の場合はリコネクション、リコネクティブ・ヒーリングはマインドに効果がありました。
私の中の想い癖は薄皮が剥がれるように少しずつなくなっていったのです。もちろん全てがなくなったとは言いません。
ただ、どんなことをしても気が付かなかった想い癖が無くなっていってたんです。というより、それに気が付けたことで日々変わっていきました。
今だからそれがわかります。
子供の病気に関しても前向きに対処していけるようになっていました。
あのままの私だったら、今度は、身体的な病気で苦しんでいたかも知れませんね。
今は何事に関してもぶれない私がいます。ぶれるような出来事があっても戻ってこれる
その術が身に付いてるようです。昔の私がなりたかった自分になっています。
プラクティショナーになる
リコネクションを受けることになった時から、リコネクションのプラクティショナーになりたいと思うようになっていました。
リコネクションで私のように苦しんでいる人を癒すことができたら、もしかしたら息子の病気にも何かしら良い影響があるかも知れない、そんな風に思うようになっていたのです。
これって、すごくないですか?
自分の勝手な思いから自分のことしか考えられなくなっていた私が!
この私が他人の幸せを考えられるようになっていたなんて!
これこそ私にとってのリコネクション効果のひとつだと確信してます。
プラクティショナーになるには、まずリコネクティブ・ヒーリングの研修セミナーを受けます。
創始者のエリック・パール氏は世界中を回って広めています。
先輩のプラクティショナーは海外のセミナーで資格をとっていました。
もし、日本で、近年中に日本で開催するならセミナーに参加したい。
すると、日本でリコネクティブ・ヒーリングのセミナーが開催されるかもしない、という朗報が入ったのです。
もし、日本で開催されるなら
もし、リコネクションの本をみつけることができたら、
私はリコネクションとリコネクティブ・ヒーリングのプラクティショナーになれる。きっとなる!
もし、もし、もしもののジンクスが全て当たっていきました!
それはトラウマを解消していく道筋にもなっていきました。
リコネクションを受けた次の年無事プラクティショナーの資格を獲得したのでした。
現在は、私自身が変わってきたせいか、
リコネクションとリコネクティブ・ヒーリングのおかげとここ10年の間に生まれてきた可愛い孫たちのおかげもあり、夫婦仲は至って順調、私がぶれなくなったこともあるのでしょう。
昔、霊能師に見て頂いた時に言われた言葉
「孫が生まれたらご主人は貴女のことをとてもよく理解するでしょう。そして二人はずっと夫婦です。」
子供を4人産んで育てた甲斐がありました。
その苦労を孫によって主人がわかってくれたのです。今頃?言われてみれば変な話ですが(笑)
それで、プラクティショナーとして始めたこのお仕事で、孫たちの意味を込めた「Magos(マーゴス)」という称号をつけることにしたのです。
資格タイトル
リコネクティブ・ヒーリング®ファウンデーショナル・プラクティショナー
( Reconnective Healing Foundational Practitioner)
リコネクション®・サーティファイド・プラクティショナー
(Reconnection-CertifiedPractitioner)
今プラクティショナーとして皆様にセッションを提供させていただいている自分が本当にうれしく幸せです。
様々な問題は徐々に解決し、私自身が変わったことでかなり急速に良くなっていきました。
「人を癒し自分を癒す」Dr.エリック・パールのこの言葉通り、プラクティショナーとして皆様と共に癒し癒され、そして宇宙へと本来の自分を取り戻すお手伝いをさせていただければと思います。
経験者は語る、プラクティショナーだからではなく実際に経験したからこそ皆様にも是非体験していただきたい、そして次なる輝けるあなた自身の人生を手に入れてください。
セッションは誠意を持って真摯にさせていただきます。期待せず、全てを宇宙に委ねてみてください。
それによって起こる奇跡を共有したときの喜びがプラクティショナーとしての喜びとなります。
私のプロフィールはここで一旦終わりにいたします。
私の悩みイコールあなたの悩みではないでしょう。
でももし感じるものがございましたらご連絡くださいね。
長い文章になってしまいましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。