雅子の自分史ストーリー
前回【14話】では新潟国体にマスゲームの
鼓笛隊として参加できたことを書いています。
その年の10月に開催される東京オリンッピっック
のプレ大会としてのスポーツの祭典でした。
国体が6月11日無事終了してまだ新潟には
その余韻が残っていたと思います。
でも1週間も経たない6月16日
地震が起こったのでした。
国体が開催されている時でなくて
本当に良かった。
もちろん良くはないですが
開催中だったら、ひどい混乱と犠牲は
避けられなかったでしょう。
「それから1週間も経たない
6月16日に新潟地震が起こったのです!」
で終わっています。
【15話】
新潟国体が6月11日に無事閉会してから
1週間も経たないのに新潟は災害に
見舞われました。
1964年6月16日新潟地震が起こりました。
近年の、阪神淡路大震災、東日本大震災、
熊本地震程の被害には到底及ばなかった
ものの、それなりに受けた被害は大きく、
小学生だった私には強烈な思い出として
残っています。
特に通っていた小学校の災害の程度はひどく
新潟市内の小学校の中では、一番か二番目に
ひどいものでした。
卒業アルバムには地震の写真も掲載されて
いたのでご紹介します。
これは校舎が解体され、倒される直前の写真だと思います。
右側にはグランドが広がっています。
校舎にはいくつかの入り口があり、児童はこちらの入り口から登校下校をしていました。
入り口と入り口の間は教室、主に1年生と2生の教室でした。
その入り口にげた箱が置いてありました。
その前には花壇が植えられていました。
地震が起きて噴水ショーのように水が沸き上がった場所です
私はグランドの校舎に向かって右側で遊んでいました。
校庭で遊んでいた私の目前に地割れ「大キレツ」ができその中に
ボールが転がっていきました。切れ目に落ちてしまって助けられた子も見ました。
机を運んでますね。当時は木の机で結構重たかったです。
地震後プレハブの校舎がグランドの先の国鉄グランドに設立されました。
ここは校舎の裏側うさぎ小屋や鳥小屋もありました。みんな津波で流されてしまったのでしょうか。
生徒たちの記録や先生方の大事なものも泥に埋まったと
あとから担任が話してくれました。
災害で人々は大事なものを沢山失ってきました
生命、家、土地、等々…
私が地震で失ったものは沢山ありました。
命こそ守れましたが、復旧までの何年館は
地震の傷跡の中で生きざるを得なかったこと
を思い出します。
「その日は快晴でした」
6月16日新潟地震が起きた時、私は小学校6年生でした。
給食が終わりお天気が良かったのでグランドでクラスの仲間と、当時流行っ
ていた「町人落とし」というボール遊びをしていました。
何日か前から小さな地震があったようで、
母が話してくれてました。
でも私は揺れを感じてなかったのでその時
突然大きな揺れを感じた時は、一瞬怖いと
いうより、「あ、これ地震、今日お母さん
に地震があったって話せる。」
なんて、呑気なこと考えてたんですが、
その考えは一瞬にして吹き飛びました。
パーンという激しい爆発音!見ると青空の
遠くの方に灰色がかった煙がもくもくと
あがっています。
誰かが「原爆だ!?」と叫んでいました。
校舎の下の水飲み場から、私から見て右
から左へウエーブを描くようにダダダと噴水
のショーのように水が次々と吹き上がっていきました。
グランドは地割れがあちこちにでき、落ちて
しまった男の子がひきあげられています。
町人落としに使っていたボールがその地割れ
の中に落ちて行きました。
揺れが収まって
そこで思い出しました。
「くつ、昨日買ってもらったばかりの
可愛い靴、取りに行かなきゃ」
一階の下駄箱コーナーへ入った時、
階段を駆け下りてくる子達
校内にいた児童達が一斉に飛び出して来ました。
自分の下駄箱で靴を取ろうとした時
先生に、「何してるの!兎に角早く校舎から
出なさい!」と促されました。
靴はそのまま下駄箱に置いたまま
校舎を飛び出しました。
校舎から出ると、地割れと破れた水道管から
流れる水でグランドは泥水化しています。
突然知らない下級生の女の子達が
「おねえちゃん!こわいよ!こわいよ!」
と、私の手にしがみついてきたのです。
そこで初めて恐怖を感じました。
逃げなきゃ!!
でもどこへ逃げればいいの?
周りの人にただ付いて行くのが精一杯でした。
無我夢中で下級生達を引き連れ泥水の
流れるグランドを通って道路を渡り、隣りの敷地に逃げ込みました。
そこは父が当時勤めていた国鉄の所有する
グランドで野球ができるスペースのある
大きな敷地でした。
奥には幼稚園の時火事で焼け出された
後住んでいた施設があるグランドです。
野球部のキャッチャーだった父が練習していたのを思いだします。
そこには、学校の児童達や先生、近くで働い
ている人達、大勢人が右往左往していました
そこへ逃げこんでからクラス毎に集まるまでのことは実はよく覚えていないのです。
しがみついてきた低学年の女の子たちをちゃんと先生に引き渡したのかさえよく覚えてないのです。
先生達がそれぞれのクラスの無事を確かめクラス毎にまとまった時、学級委員だった
私に担任がみんなを座らせてくださいと
言われたのでしょうね
「みんな座ってください!座ってください!」
と叫んでいたと、後から友達が話してくれました。
並んで待っていると、次々と保護者の方が
迎えにきます。私のお母さんは?まだ?
大丈夫なのかな?お父さんは?妹は?
心配症な私は輪をかけて只々心配でたまり
ませんでした。
信濃川を渡った所でパートをしていた母は
やっと壊れた橋を渡って迎えに来てくれました。
母と家に帰ると、住んでいた国鉄アパートの
敷地の芝生といういかクローバーが植えられているところに人々が座っています。
アパートの中は危険と言われ外で待機して
いたようです。祖母と妹もそこにいました。
ーーーーーーー
妹は風邪で保育園を休み祖母が面倒を看に来てくれてたのです。
保育園でなくて良かったと後で話していましたが、祖母はあの後どうやって
帰ったのか今更ながら思い出せません。
祖母は母と逆に信濃川を渡って歩いて
帰っていったのか、祖父が迎えにきたのか
祖父もきてそのまましばらく一緒にいたのかさえ覚えていないのです。
母が小学校の友人を一晩うちに泊めた
事も覚えてなくて、後に同窓会の時に
その話になり、そう言えば一緒のお布団で
寝たようなおぼろげな記憶しかないのです
どれだけの恐怖だったのでしょうね。
ーーーーーーーー
学校から戻って母、祖母や妹と一緒に
クローバーの草はらに座っていると
近くのお菓子屋さんが電気が止まって溶けて
しまうからとアイスクリームを子供達にわけてくれました。
だいすきなメロンの形をしたアイスだったと思います。
でも私はとても食べる気にはなりませんでした
すると突然
「津波だ!高いところへ逃げろ!」
という声が!
国鉄アパートは4階建てだったのでみんなで
急いで屋上へ。フェンスから覗いていましたが
幸いここまで津波は来ませんでした。
恐怖感から足が立ちすくんでたのを覚えて
います。
津波は信濃川を逆流し、土手を乗り越え
浸水被害をもたらしました。
私の通っていた学校も川のそばで一階は壊滅、校舎は傾き後で解体となりました。
一階にあった下駄箱は勿論津波で流された泥の中に埋もれました。
昨日買ってもらった靴、細身でシンプルでかかとにリボンが付いてる
お気に入りだったのに、朝登校で履いたきりになってしまいました。
まだ新しくできたばかりだった昭和大橋
が区切れて落ちてしまいました。
パーンと爆発のあったのは、原爆でなく
昭和石油の工場のタンクが爆発。
夜になってもその炎が消えずに遠くにあった
にもかかわらず窓の外を明るく照らしてい
ました。
そして余震に脅かされ、ベランダからみえる
空を飛んでるヘリコプター、それに乗って
この地上から離れたいとどんなに思ったこと
でしょう。
電気より、ガスと水の復旧は遅れ、母の夕飯
作りの前に七輪に火を起こすのが私の仕事
になりました。
給水車から水をバケツに入れてもらい、
住んでいたアパートの4階までこぼさない
ように運ぶのは大変でした。
トイレは水洗でしたので、家のは使えず共同
でアパートの敷地にトイレの穴を掘りその上
に簡易のトイレを設けていました。
そこはいつも遊んでいた草はらでした。
ボットン便所です。
いつも消毒の臭いがしていました。
夜寝る前に行くのですが、父や母と行かない
と怖かったですね。
妹が使っていたお丸がありましたが
さすがに使えなかったです。
学校は使えなくなったので、避難で使って
いた国鉄グランドにプレハブの教室を建て、
小学校最後の年はそこで勉強となりました。
夏は暑く、冬になると雪が降った日にはすきまから
雪が入ってきてました。
それでも私たちは、元気にたくましく毎日を過ごし
震災に負けじとがんばりました。
体育館も使えず、卒業式は近くの高校の体育館でした。
傾いた校舎は後に解体されました。
黄緑色した美しい校舎の壁が崩された時、
涙が流れました。
校舎を崩す時、プレハブ教室のある敷地から
児童達みんなで見てましたが、
ああ倒れる!とか、嗚咽とも言えない小さな
叫びがあちこちから聞こえていました。
そんな中でしたが中学へは皆無事に入学できました。
中学校もプレハブと、体育館を仕切って
作った教室での学校生活でした。
災害は一瞬にして日常や、大切なものを
奪います。私は靴で幸いでした。
漸く全てが平常に戻ったのはいつの頃だったでしょうか。
当時、子供達も大人達も復旧に向かって頑張っていました。
絶望の中でも、人間は生きて行かなくては、そんな思いで其々が頑張っていたんだと
思います。
だからこそ、普段日常を大切に生きて行かなくてはと切に思うのです。
~続く~