この年は10月に東京オリンピックが開催された年です。

二度のオリンピックを日本で見られるなんて有難い!!

東京2020はコロナで一年遅れて開催されました。

開催を危ぶまれたけれど、確かにコロナ感染拡大がありましたが、

日本だから無事オリンピックができたと私は思っています。

このコロナ禍の中、日本へいらしてくださった選手の皆様に

拍手と感謝を捧げたいと思います。

「雅子の自分史ストーリー」

前回【13話】では合唱隊に入り

あの時は気持ちいいくらいに高い声が

出ていたのに中学生になってから

声が出せなくなっていったお話でした。

 「小学校の頃のような澄んだ高い声

ー自分で言うのも何ですが…(笑)ー

は、もうどう足掻いても出ませんね。

合唱隊

いい思い出ばかりでした。」

こちらで終わっていました。

 

前回の記事はこちらからどうぞ

【14話】

1964年6月第19回国民体育大会が

新潟で開催されました。

その年の秋には東京でオリンピック

が開催されるので、秋季大会が春季

大会になったんだそうです。

小学校6年生の衣替えの時期でした。

その大会の開会式で新潟市の全小学校

5〜6年の児童で、鼓笛隊と縦笛のマス

ゲームの演技を発表したのでした。

私もその時鼓笛隊として出場したのです

その大会発表の準備は4年生の3学期

の頃から始まっていました。

ーーーーーーーーーー

ある日の昼休み、先生が一人ひとり

自分の机に呼んで何やらやらせています。

私の番になりました。

音符のようなものを見せられて拍子

を取らされました。

なかなか上手くいきませんでした。

全員が終わると先生は教務員室へ

行って5時間目に戻って来たときに

「今から呼ぶ人は音楽室へ行って

ください。」

と言って何人かの名前を呼びました。

その中に私の名前はありませんでした。

先生は読み上げた人達と音楽室へ

残った者は縦笛の練習をしてるように

と言われてました。

昼休みにみんなにやらせていたのは

小太鼓の打ち方のテストだったんです。

選ばれなかったことが悔しくて涙が

出そうになってしまいました。

どんだけ勝気だったのでしょうね(笑)

しばらくすると、女の子が私を迎えに

きました。

「先生が呼ぶのを忘れてたみたいだよ

来なさいって言ってたよ。」

この時ほど嬉しかったことはありません(笑)

呼ばれたのは、小太鼓や中太鼓、大太鼓

シンバル、リラグロッケンを受け持つ

子達でした。

私はリラグロッケンという、鉄琴の楽器

でした。

呼ばれた事は嬉しかったのに小太鼓で

なかったのが残念だった私です。

それでも、縦笛でなくて中心の鼓笛隊員

に選ばれた事はとても名誉でした。

新潟国体へ向けて、鼓笛隊の練習は

進んで行きました。

小学校内の合唱隊にも入り合唱

コンクールに出るのに週に何回か

合唱の練習鼓笛隊の練習と、高学年

は忙しい日々が続きました。

合唱隊も鼓笛隊も大好きな担任

だったのでどちらも練習が嫌になる

事もなく、楽しく過ごしました。

6年生になると国体に向けてのマス

ゲームの練習が激しく、厳しくなり

ました。

リラグロッケンは腰にベルトをつけて

手に持つ支えの棒をそこに付けて持って

歩きながらの演奏です。

グランド内を右に左に動きながらの

練習の時は流石に疲れました。

総指揮者は女子で、白手袋をして、笛を

吹きながら堂々と指揮棒を振る姿が格好

よくて、よく真似をしましたが、とても

自分では務まらないと思ったものです。

市内の全小学校合同での練習が

競技場で行われました。

他の学校の人達と同じ演奏をし闊歩

します。みんながすごく上手で堂々と

してます。私も負けないよう頑張りました。

途中でグランド内で休憩の時、隣に

いる他の学校のリラグロッケンの子と

仲良くなったのですが、後に高校三年

の時同じクラスになり、親しくなると

いう出会いもありました。

新潟国体春季大会は6月11日に閉会と

なりました。

それから1週間も経たない

6月16日新潟地震が起こったのです!

~続く~