6月16日は1964年に新潟地震が起きた日です。

新潟地震

近年の、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震程の被害には及ばなかったものの、それなりに受けた被害は大きく、小学生だった私には強烈な思い出として残っています。 特に通っていた小学校の災害の程度はひどく新潟市内の小学校の中では、一番か二番目にひどいものでした。 卒業アルバムには地震の写真も掲載されていたので写した物を添付します。
写し方が雑で分かりにくいかもしれません。

 災害で人々は大事なものを沢山失ってきました生命、家、土地、建物  私が地震で失ったものは沢山ありました。復旧までの何年館は地震の傷跡の中で生きざるを得なかったことを思い出します。  

あっ、揺れてる?!

 6月16日新潟地震が起きた時、私は小学校6年生でした。給食が終わりお天気が良かったのでグランドでクラスの仲間と、当時流行っていた「町人落とし」というボール遊びをしていました。

何日か前から小さな地震があったようで、母が話してくれてました。でも私は揺れを感じてなかったのでその時突然大きな揺れを感じた時は、一瞬怖いというより、「あ、これ地震、今日お母さんに地震があったって話せる。」なんて、呑気なこと考えたんですが、その考えは一瞬にして吹き飛びました。

パーンという激しい爆発音!見ると青空の遠くの方に灰色がかった煙がもくもくとあがっています。誰かが「原爆だ!?」と叫んでいました。

校舎の下の水飲み場から、私から見て右から左へウエーブを描くようにダダダと噴水のショーのように水が次々と吹き上がってきました。



グランドは地割れがあちこちにでき、落ちてしまった男の子がひきあげられています。町人落としに使っていたボールがその地割れの中に落ちて行きました。



揺れが収まってそこで思い出しました。
「くつ、昨日買ってもらったばかりの可愛い靴、取りに行かなきゃ」
一階の下駄箱コーナーへ入った時、校内にいた児童達が一斉に飛び出して来ました。

私が自分の下駄箱で靴を取ろうとした時先生が、
「何してるの!兎に角早く校舎から出なさい!」と促しました。
靴はそのまま下駄箱に置いたまま校舎を飛び出しました。

校舎から出ると、地割れと破れた水道管から流れる水でグランドは泥水化しています。突然知らない下級生の女の子達が「おねえちゃん!こわいよ!こわいよ!」と、私の手にしがみついてきたのです。そこで初めて恐怖を感じました。

逃げなきゃ!!  でもどこへ逃げればいいの?

下級生の女の子たちの手をしっかりつなぎ引っ張るように走り出しましたが、周りの人にただ付いて行くのが精一杯でした。無我夢中で下級生達を引き連れて学校の泥水の流れるグランドを走り通って道路を渡り、隣りの敷地に逃げ込みました。

そこは父が当時勤めていた国鉄の所有するグランドで野球ができるスペースのある大きな敷地でした。野球部のキャッチャーだった父が練習していたのを思いだします。

そこには、学校の児童達や先生、近くで働いている人達、大勢人が右往左往していました
そこへ逃げこんでからクラス毎に集まるまでのことはよく覚えていません。

先生達がそれぞれのクラスの無事を確かめクラス毎にまとまった時、学級委員だった私に担任がみんなを座らせてくださいと言われたのでしょうね
「みんな座ってください!座ってください!」と叫んでいたと、後から友達が話してくれました。

母の迎えで家に帰り、そして津波が…



並んで待っていると、次々と保護者の方が迎えにきます。私のお母さんは?まだ?大丈夫なのかな?お父さんは?妹は?

心配症な私は輪をかけて只々心配でたまりませんでした。信濃川を渡った所でパートをしていた母はようやっと壊れた橋を渡って迎えに来てくれました。

母と家に帰ると、住んでいた国鉄アパートの敷地に人々が座っています。アパートの中は危険と言われ外で待機していたようです。祖母と妹もそこにいました。近くのお菓子屋さんが電気が止まって溶けてしまうからとアイスクリームを子供達にわけてくれました。でも私はとても食べる気になれずにいました。

すると突然「津波だ!高いところへ逃げろ!」という声が!国鉄アパートは
コンクリート造りの4階建てだったのでみんなで急いで屋上へ。フェンスから覗いていましたが幸いここまで津波は来ませんでした。
恐怖感から足が立ちすくんでたのを覚えています。津波は信濃川を逆流し、土手を乗り越え浸水被害をもたらしました。私の通っていた学校も川のそばで一階は壊滅校舎は傾き後で解体となりました。

土砂に埋まってしまった

校舎の一階にあった下駄箱は津波と共に流れ込んできた土砂で埋まり、昨日買ってもらったばかりの靴、細身でシンプルでかかと側にリボンが付いてるお気に入りだった靴もその土砂の中に埋もれ、朝登校で履いたきり二度と履くことはできませんでした。

パーンと爆発のあったのは、原爆でなく昭和石油の工場のタンクが爆発。夜になってもその炎が消えずに遠くにあったにもかかわらず窓の外を明るく照らしていました。

そして余震に脅かされ、ベランダからみえる空を飛んでるヘリコプター、それに乗ってこの地上から離れたいとどんなに思ったことでしょう。

電気より、ガスと水の復旧は遅れ、母の夕飯作りの前に七輪に火を起こすのが私の仕事でした。給水車から水をバケツに入れてもらい、住んでいたアパートの4階まで運ぶのも大変でした。

トイレは水洗でしたので、家のは使えず共同でアパートの敷地にトイレの穴を掘りその上に簡易のトイレを設けていました。夜寝る前に行くのですが、父や母と行かないと怖かったですね。

学校は使えなくなったので、避難で使っていた国鉄グランドにプレハブの教室を建て、小学校最後の年はそこで勉強となりました。
夏は暑く冬には雪が窓の隙間から降ってくるそんな昔のプレハブでした。

傾いた校舎は後に解体されました。黄緑色した美しい校舎の壁が崩された時、涙が流れました。校舎を崩す時、プレハブ教室のある敷地から児童達みんなで見てましたが、ああ倒れる!とか、嗚咽とも言えない小さな叫びがあちこちから聞こえていました。

復興に向けて


体育館は床が盛り上がり工事がなかなか進まず、卒業式は近くの高校の体育館でした。それでも無事みんなで卒業できたことを喜び合いました。
中学校もプレハブとプレハブの間のスペースでの入学式、体育館を仕切って作った教室での勉強でした。


災害は一瞬にして日常や、大切なものを奪います。私は靴で幸いでした。漸く全てが平常に戻ったのはいつの頃でしょか?当時、子供達も大人達も復旧に向かって頑張っていました。んな不自由な生活が続きましたが、こども達は意外に逞しく元気をすぐに取り戻し、大人たちも復興に向けて勤しみました。
人間て本当に凄い逞しいです。
絶望の中でも、人間は生きて行かなくては、そんな思いで其々が頑張っていたんだと思います。



だからこそ、普段日常を大切に生きて行かなくてはと切に思うのです。